自民党総裁選をイカサマ博打と喝破した大宅壮一

安倍晋三と石破茂の一騎打ちになった自民党総裁選。安倍の優位から3期目の総理大臣就任は確実視されるが、与党内での権力闘争に勝利した者が首相になることについて、議会制民主主義の制度上仕方ないとはいえ、国家を統治するトップ選びに民意が直接反映されないことへの諦めと無力感を持つ国民は多い。
総理大臣として8年近く在任した佐藤栄作が1966年(昭和41年)、第1次佐藤第3次改造内閣を成立させたとき、評論家・大宅壮一は自民党総裁選を「デンスケとばく」と一刀両断した。

そのコラムの一文を引用する。

《前略》……最近の世論調査によると、この内閣の支持率は二五パーセントにすぎない。国民投票によれば、一〇パーセントを割るのではないかともいわれている。それでいて、自民党の総裁公選において、佐藤首相の得票率が三分の二に近かったというところに、このデンスケとばくのシカケがある。代議政治というのは、委託政治、代行政治、ブローカー政治であって、その過程に多少のトリックが潜入してくることは避けがたいのであるが、このトリックを国民の前にハッキリと示したという点に、こんどの総裁公選とこれにつづく内閣改造の政治史的意義があったともいえよう。ことばを換えていえば、政策も政見も、ほとんど持たない佐藤栄作のような人物でも、現行の政党政治のカラクリのなかでは、多数党員の支持を得て、政権の座にすわることができるということを実証したのである。……《後略》

(『名乗りをあげよ保守第二党』 昭和41年12月18日)

佐藤栄作は安倍晋三の大叔父である。首相在任中に小笠原諸島・沖縄返還を果たし、非核三原則(核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず)を表明、そのことでノーベル平和賞を受賞したが、米大統領リチャード・ニクソンとのあいだに密約があり、実際は核兵器が日本に持ち込まれていたことが、佐藤の死後に判明した。

民主主義、議会政治のまやかしを痛烈に批判

大宅は佐藤内閣の本質を、別のコラムでも取り上げている。冒頭にいきなり〝倉石発言″と出てくるので当時の説明が必要だろう。
倉石忠雄、前掲の佐藤の第3次改造内閣時に農林大臣に就任。発言内容はウィキペディアによると「現行憲法は他力本願だ、やはり軍艦や大砲が必要だ」「こんな馬鹿馬鹿しい憲法を持っている日本はメカケのようなもの」というもの。それを受けて大宅が書いたのがこれだ。

〝倉石発言″によって、国会の機能がすでに十日以上にわたり、完全マヒ状態に陥ってしまった。これは佐藤内閣の基本的性格につながるものであるとともに、現在の政治、さらにその背景になっているいまの日本のあり方と切り離すことのできないものである。いまの日本には、各種のタブー(禁忌)がある。しかもその大部分は、それが発生したときのようなナショナル・コンセンサス(民族的合意)の裏づけが失われるか、あるいは禁忌力が弱められて、ある程度常識化されているものである。戦後、日本に発生したタブーのおもなものは、まず第一に原爆、ついで憲法改正、再軍備からベトナム戦争につづく一連の〝平和思想″につながるものである。……《中略》……この種の〝舌禍″は、腹にもないことを口に出したから起こるのではなく、腹にあることをおさえ、腹にもないことを口にするという、政治家にとくに必要な能力の点で、欠けるところがあったことから起こるものである。最近、これが頻発するというのは、佐藤内閣の体質、その二重性からくるケイレンのようなものである。

(『〝舌禍″と政治家の能力』 昭和43年2月25日)

大宅はその後再び自民党総裁選をこきおろしている。

《前略》……同じことが自民党の総裁選挙についてもいえる。自民党の総裁に選ばれた ものには、次期総理の地位が用意されているのだから、実質的には日本の首相選挙である。それが自民党に属する衆参両議員と自民党の都道府県代表者、合わせて五百人足らずの投票によって選ばれる。この五百人足らずが一億国民の利害を代表するのだから、一人で約二十万人分を代表することになる。いったい、彼らはどうしてこの権利を獲得したのであろうか。これはまさしくデンスケとばくの一種である。このイカサマが「民主主義」「議会政治」の名において公然と行われているのだ。……《後略》

(『三つの選挙の魔術性』 昭和43年11月23日)

昭和の時代相を切り取った怪物評論家の一大山脈

これらの評論を読み、現代の政治状況と比べると、あまりに酷似していることに驚く。数の論理にあぐらをかく政権与党の不誠実さ、大臣ら中枢にある政治家の暴言・失言、そして呪詛のように首をもたげる日本国憲法改正論議。

まるでデジャブのような政界の茶番劇を、大手メディアの多くは、まさしく〝政治ショー″の側面からしか報道せず、国民生活への影響をきちんと分析するリポートは少ない。

太平洋戦争の戦前、戦後を駆け抜けたジャーナリスト・大宅壮一は、そのときどきの時代相を的確に表現する名コピーライターでもあった。「一億総白痴化」「一億総評論家」「恐妻」「太陽族」「駅弁大学」「家庭争議」「ジャリ革命」「男の顔は履歴書である」「クチコミ」……。

しかし現在は「大宅壮一ノンフィクション賞」(2017年度より「大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞」に改称)や「大宅壮一文庫」でしか名前を聞いたことがない世代が多くなり、実際の足跡、業績を知らない人が大半である。しかも「大宅壮一文庫」でさえ、明治時代以降の刊行物を網羅する日本最大の雑誌図書館であることを知らず、岩波文庫や角川文庫といった出版物のブランド名だと勘違いしている人もいる。

いまはほぼ絶版となった大宅壮一の著作を読む機会があり、社会のあらゆる事象を料理する膨大な論評に夢中になった。権力におもねることが見受けられる昨今のマスコミ界で、もし彼が存命なら物事の深部にあるものをどのように抉り出したか。歴史は繰り返されるというが、相似形を見るような単なる既視感的面白さだけではなく、日本独自の社会システムや日本人の根っこにある問題を半世紀も前に衝いた、明晰さとウイットを併せ持つ評論の一大山脈をテキストに、現在の時事風俗と絡めながらしばらく紹介していきたい。

(平成30年9月18日)